つづき

昨日のつづきです。

造形大を17:30頃出て、ムサビへ向かいました。19:00から行われる、イメージライブラリー企画、諏訪敦彦さんの特別講義を聞くためです。このイメージライブラリー企画の特別講義は僕も昨年4月にさせていただいたことがありました。

諏訪さんは中川さん同様、僕の先生でもあり、東京造形大学の学長でもあります。諏訪さんの映画はたぶん全部見ていますが、僕は『2/デュオ』と『M/OTHER』が特に好きで、その2作品についてのお話がメインだったので嬉しかったです。


講義は「これからお話しすることはあくまで作品が出来てから考えたことで、制作中は言葉で考えて撮ったのではなく、身体的、直感的にスポーツのように撮影しています」という前置きからはじまりました。柄谷行人「意味という病」の中の「どんな意識的な行為でも不透過な部分がある。ふらふらやったのと大差ないときがある。やってしまってから考えることしかない。やってしまったという違和感からしか考えることが出来ない」という文章を紹介、諏訪さんの場合も正にそうで、なぜこの作品がこうなったかは後から考えることしか出来ない部分がたくさんあり、いまだに解明されていない謎もあるとのことでした。このお話はとても共感でき、僕自身がそういう風に作品を作ってしまっているので、それを許されたような気がしました。以下、ダラダラと講義のメモです。


・『M/OTHER』の撮影風景のドキュメンタリー番組の抜粋を上映、どのような段階を経て撮影が行われたかの解説。かなり緊張感のある現場。自分にはとても耐えられないだろうなあと思いながら鑑賞。

トリュフォー『大人はわかってくれない』を抜粋上映、「女と寝たことある?」の質問に対する男の子の表情(反応)を見せる。その後、1920年代のある映画の冒頭を上映。それは貧しい少年を主人公とした物語なのだが、「僕が興味深かったのはここです」といって指差したのは遠くのほうで一瞬だけ写る(写ってしまった)大人に物乞いをしているリアルな少年。物語の主人公である少年はいかにも貧乏というボロボロの衣服を身にまとっているが、後ろで小さく写りこんでしまった少年は物乞いをしているようには見えるものの、服装は平凡そのもの、それどころか金持ちの子供にも見ようと思えば見える。いったい何者なのかがさっぱりわからない。

・『2/デュオ』の脚本を書かなかった(書けなかった)理由を説明。「自分がシナリオを書くと、こういうもの(少年の反応、謎の少年の存在)が失われてしまう。書ける人が書けば書けるのだろうが、自分は無理だった」というお話。自分が書くことで観念的に作り出してしまい、自分の知らないことを彼らが話さないということがつまらなく感じ、書けなくなった。

・全てを知っている人間が書いた、世界が首尾一貫していて意味を持ち、全て説明が出来るという物語と、世界に対する確信が壊れていて知らないから書くという物語があり、自分は後者なのだという話。カメラを使って知っている世界を構築したいのではなく、知らないこと、他者、世界を知りたいのだとのこと。

・『デュオ』の中でケイはなぜ怒っているのかケイ自身わからなくなっていた。即興なので突然怒って洗濯物をユウに投げつけたのを撮影し終わり、「どうなっちゃうんだこれ」と思ったらしい。その後、ユウにもそういう事態が起こった。なぜそのような反応をしたのか自分自身でもわからない、そういう、自分の中にすらわからない他者がいる。監督も出演者も誰にもわからない世界になっていると感じ、インタビューを入れた。

・カット終わりでカメラがブレるところは狙って撮影したものではなく、単にカットがかかったためにカメラマンが動かしたというもの。編集段階であえて入れた。それはカットとカットの間に入る黒味もそうだが、スムーズにつなげずに断裂が必要だと感じたため。

・質疑応答では積極的にたくさんの発言があった。中でも「黒澤清さんや青山真治さんなどが明らかに映画史を意識しているのと比べ諏訪さんの映画からはそれをあまり感じない。映画史についてどう考えているか」という質問が印象深かった。自分もまったく興味がないわけでもないし、様々な映画から影響を受けていると前置きしてから、ただ、シネフィルの人ほど意識的ではない事は確かだと言っていた。自分も昔はこういうカメラアングルでこういう風に動いて・・・ということをやりたいという願望はあったが、いざやってみると、なんだこんな事だったのかとあまり面白く感じなかった。『デュオ』ではカメラマンがたむらまさきさんだったので、この人の場合は好きに撮らせたほうが良いと思い口出ししなかった。すると、いつも自分がこう撮ったほうが良いのではと思う所と別の角度から撮っている。だんだんやっているうちに、アングルがどうとかフレームがどうとかっていうことは実は大したことではなくて、その場がきちんと作れてしまえば、あとはどういう風に撮影されてもOKなんじゃないかと思えるようになってきたとのこと。それに気づいてすごく開放されたとおっしゃっていた。


簡単に印象に残っていることだけを書いたつもりが、ずいぶん長くなってしまったなあ。その他、興味深いお話がたくさん聞けました。質問に対する対応(例えば、「的外れな質問ですみません」という発言に対して「質問に的外れなことなんてありえないですよ」と言ったり、「わけわかんないですね、すみません・・・」と言った質問者に対して「わかるもの同士の対話は確認のし合いでしかないから、わけのわからないもの同士じゃないと話す意味がないじゃないですか」と言ってみたり)も素晴らしかったし、諏訪さんが自作についてガッツリお話しているのを見るのははじめてだったので、とても充実した時間を過ごすことが出来ました。


実はこの日、山村さんによる『第3回コンテンポラリーアニメーション入門』という講座があり、3回の中でも最も楽しみにしていたトッカフォンドの回だったこともあり、ものすごく楽しみにしていたのですが、悩んで悩んで悩みぬき、中川先生の退職記念は一度きりだけどトッカフォンドはいつかどこかで観る事が出来るだろうと、造形大学の教授による2講義を選んでしまいました。和田君にコンテンポラリーでの山村さんの発言を一字一句メモするようにと頼んでおいたけど、あんまり期待は出来ないよなあ・・・。

いつか山村さんと諏訪さんの対談が見てみたい。諏訪さんの話2時間、山村さんの話2時間、対談2時間って感じで丸一日かけて誰か企画してくれないかなあ。それが出来るのは造形大だけだと思うんだけどなあ。でも、意外とそんなことを望んでいるのは自分一人なのかもしれない。在学中から、映画専攻の人は全然アニメーション専攻に興味なさそうだったし、アニメーション専攻の人は全然映画専攻に興味なさそうだった。アニメーション科の後輩に「諏訪さんとか映画専攻の先生達にも作品見てもらったほうが良いよ」って言っても誰もそれをやらなかったし。映像以外でもせっかく美大で、まわりに絵画、彫刻、デザイン、といろいろな同年代の表現者がたくさんいるのにもったいないよ。自分は文化祭は一度も参加しなかったけど、卒制展は毎年端から端まで全部見て回ったけどなあ。歪んだライバル意識を持ちながら。

それはもしかしたら藝大の院生たちもそうなのかな。横浜映像祭なんて、アニメーション、メディア、映画、と3専攻それぞれの生徒の作品が上映されてたけど、交流はほとんどなさそうだったもんなあ。みんなそれぞれ良い人達だし、優秀な人間の集まりなのにもったいないなあ。仲良くすれば良いのに。

あれ?何の話だったっけ?

そんなわけで、その後、飲み会で朝までいろいろな人といろいろなことについて話して、ここでも是非紹介したいところなのですが、今日は長くなりすぎましたので、書くことがなくなった時にでも書こうかと思います。